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イメージを大事にした男と、リアルを大事にした男(2/2)


晩年は俳優の枠を超えて活動

 奥さんの文面にもあるように彼は晩年、山梨県に住み無農薬有機農業に勤しむかたわら、平和を守る活動を精力的にこなしていた。菅原文太氏にしろ細川護煕氏にしろ、あの年齢で精力的に活動し始めた姿勢には感服する。恐らくいまの時代に危険な匂いを感じ取り、居ても立ってもいられなかったのではないだろうか。菅原文太氏は「仁義なき戦い」で一躍スターダムに登った若い頃は、いまの時代ほど潔癖性が求められていなかったとはいえ、山口組関係者との付き合いがメディアで取り沙汰されたこともあることを考え合わせれば、その変化に多少の驚きはある。ただ、彼自信は「変化」ではなく、現実への対応ととらえていたかもしれないが。「いま」をとらえ、それへの対応をしてきた現実主義者というのが正しいかもしれない。

 人はその年代にならないと分からないものがあるし、ある年齢から痛切に感じだすことがある。その一つが健康と命の尊さだろう。ただ、そのことを強く感じていても、誰もが行動に移せるわけではない。行動に移すには強い思いと同時に、なんらかのきっかけがいる。菅原文太氏の場合、そのきっかけは自身の病と長男の事故死ではなかったのかという気がする。

 ところで、訃報を知らせるメディアの報道で不思議だったのは福岡県の太宰府天満宮で家族葬を執り行ったという下りだったが、長男の遺骨を太宰府天満宮祖霊殿に納骨し、以降何度もお参りに訪れていたらしい。天満宮の近くにマンションを購入し、最晩年はそこで過ごしていたとのこと。自身も長男と同じ場所に納骨して欲しいと頼んでいたというから、長男に対する深い愛情を感じるとともに、その死が与えた影響が大きかったことも。こうした経験がよけいに命を守る活動へと彼を駆り立てていったのではないだろうか。

イメージの中に生きた映画俳優

 菅原文太氏がその時代の中で生きてきたのに対し、高倉健氏は「映画俳優 高倉健」のイメージを大事にし、そのイメージの中に生きたと言える。
 昔、高校時代の同級生に「小田はあんな感じではなかった。高校時代は明るくて、快活だった」と聞いたことがあるが。確かに初期の出演作品ではとても明るい、笑顔が似合う青年だったのを覚えている。
 それが「網走番外地シリーズ」を始めとした任侠物がヒットし、「寡黙な男」というイメージが作られたものだから、律儀な彼はそれを裏切るまいとしてスクリーンの中の「高倉健」を演じ続けたのではないだろうか。私の中の高倉健氏はずっとそんなイメージだった。イメージを裏切ることができたら、もっと楽に生きられた、江利チエミと離婚することもなかったかも、と。

 初めて高倉健氏の主演映画を観たのは大学生の時だった。「網走番外地シリーズ」だったか「日本侠客シリーズ」だったか、その両方だったか定かではないが、藤純子さんが出ていたのを覚えているから「日本侠客シリーズ」は間違いなく観たようだ。
 映画館に足を運んだきっかけは、当時、新左翼を標榜する東京の学生などが高倉健氏の任侠物映画を観て、スクリーンに向かって声を掛け、やんやの喝采を送っていたと聞いたから、そんなに夢中になれるものなのか一度観てみようと思い映画館に行ったたが、見終わった後、もし言われていることが本当なら、東京の学生もバカだなと思った記憶がある。
 所詮はフィクション。現実とは違う。当時、我々は現実世界の中で矛盾を指摘し、それにノーと言っているのに、フィクションに酔いしれてどうするんだという気持ちだった。まあ、ちょっとひねた学生だったかもしれないが。

 役で演じている人物と役を演じている人物を同一視する人は多い。吉永小百合さんが「夢千代日記」に出ている頃、彼女を「耐える女」と言った人が私の身近にも結構いた。そうした評価を聞きながら、彼女のどこが耐える女なのかと思ったものだ。勝ち気な性格は若い頃から顔に現れているというのに。

 フィクションと現実を混同し、時にフィクションの世界によって現実が規制されることがある。そのいい例が宗教、神だ。もともと人が、人に似せて神を創ったのに、創造神(人によって創造された神)が人を創造したことになっている。神の姿がヨーロッパではアジアや黒人系の顔形ではなく白人系の似姿であり、日本の神話では日本人の似姿になっていることからも分かろうというものだ。
 といっても、この逆転現象が悪いわけではない。それを生き方の規範にしている人もいるし、宗教が精神の拠り所、平安を保つものになっていることもあるからだ。

 高倉健、吉永小百合の両氏ではこれに似たことが起きている。ともに自身のイメージ(ファンが抱くイメージ)を大事にし、それを崩さないようにしているからだ。役柄も私生活でも。それ故、俳優としては大きく脱皮することもなかったが、自らのイメージをストイックに追求し続けているので、観客も監督も安心できるという面はある。
 さて、我々はどちらの人生を生きるのか、生きていくのか。少なくとも晩節を汚すような生き方だけはしたくないと思っているが。
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